第二章 泣くなシンタロー!今日も夕陽は赤いのだ

第14話 レッドの弱点

わるもn

限られた稽古時間は矢のように過ぎていった。

クライマックスのアクションは、空中とトップステージで繰り広げられる。

そしてこの稽古で、ただでさえ難点だらけだった真太郎の、決定的な弱点が露呈した。

動線の確認のために、テラは真太郎を連れて、上手に設置された階段塔からトップステージに上がってゆく。

コの字状のトップステージは、落下アクションの妨げになる柵は設けられておらず、二メートル足らずの幅しかない。下を覗けば、メインステージの灰色の床がじかに目に飛び込んでくる。

「おい、どうした。早く来い」

先にトップステージに足を踏み入れたテラが振り返ると、真太郎は階段の手すりをがっちりと握りしめて、尻が床につきそうなくらいのへっぴり腰になっている。

「おまえ、まさか」

テラの危惧どおりだった。真太郎は極度の高所恐怖症だったのだ。
どうやら足首に力が入らなくなってしまったらしく、手すりを離すと、もうまともに歩けない。テラが支えようにも、体勢がぐらぐらしすぎるので近づけない。それでも、

「いいから来い!」

引っ張ってどうにか二メートルほど引っ張り出すことができたが、それが限界だった。

ステージの床に真太郎の尻ははりついて、ずりずりとすりながら背中のほうはぴたりと背後の壁に押し付けるものだから、ジャージがずれてパンツが半分むき出しになってしまった。
かといって腰を浮かせてジャージをずり上げることさえできない。恐怖でまぶたがひきつってしまったのか、目を見開いたまま、ぶわあと溢れる汗を、ただ流れるままにしているのだった。

あっという間に真太郎のおしりは汗でじっとり濡れた。それでも足らずに、あっという間にその身体の下には小さな水たまりができてしまうほどだった。

「お前、なんなんだその特異体質は」

「分かりません。自分でも。いままでこんなところに来たことがなかったので」

「こんなの大した高さじゃない。とにかく下を見てみろ」

意を決し、たっぷり時間をかけ、体勢をじりじりと変えて腹ばいになった。薄目にして腹をぴったり床につけたまま、汗まみれになりながら顔を突き出して、目を見開いた。
七メートル下のメインステージは真太郎の意識の中で遠ざかってゆく。

「テラさんすみません。たいへんすみませんが、僕を安全な場所までひき戻していただけませんか」

直下から目を離せないままの真太郎の肩をつかむ。異様に重く感じる真太郎を歯を食いしばって壁に引き戻した。
ぜえぜえ言いながら、

「自分で降りてこい」

「ま、待って下さいいいい」

真太郎をその場所に取り残してテラは降りて行った。間もなく、遠雷のような音が場内に轟く。

「な、な、なにごとですかっ・・・」

地響きが収まった。おそるおそる首を伸ばして下方を見やると、メインステージ上には、奈落へ通じる巨大な穴が、おぞましい口を開けている。穴の淵に立ったテラが見あげながら叫ぶ。

「降りてこい」

その言葉にゾワッと眩暈を覚え、真太郎は壁に背中が貼りついているかのように首だけを左右にブルンブルンと振った。

「それは降りるって言いません。落ちるっていうんです」

「どっちでもいいからやってみろ。はじめてのおっこちだ。はじめてのおつかいより簡単だぞ」

やがて、真太郎の霞んだ視界の向こうに、小さく手をふる人が見えてくる。小仏が階段状になっている客席の最後尾までかけ上がってきたのだ。
客席の最後尾は、トップステージとほぼ同じ高さだ。客席という大きな谷間を挟んで、真太郎からは小仏が、小仏からは真太郎がまっすぐ見える。

「絶対に安全だから飛び降りてみな。一度おこっちてみりゃ、あとはへっちゃらだよ」

小仏の声が響いて、ふと腰を浮かせてみたものの、それ以上は無理だった。また腰が沈んで動けなくなった。瞬く間に十分がすぎた。

「もういい。階段を歩いて、お前の足で降りて来い」

声が響いて、テラも小仏と一緒に、真太郎の視線の先に現れた。

意外と頑固な真太郎はあきらめきれずに首を振った。

「でもやらないと、でもやらないと僕はっ・・・」

うわごとのようにつぶやくものの、動く事さえできない。
すこしでも下を見ようとすると、汗がまだどっと沸いてくる。口が乾いて唇が歯にくっついた。

「無理なもんは無理だ。ラスタチのやり方を変える。お前はトップステージにはいかないで、ずっとメインステージとダウンステージだけでやってもらう。だから戻ってこい」

無言で硬直したままの真太郎に、テラは怒号をあげる。

「早く降りやがれ! おぼっちゃまくん!」

「だからその言い方はやめ!」

真太郎は背中を壁につけたまま腰を浮かせ、上半身をせりだす。そして一歩踏み出したところで、あろうことか床にたまった汗でずずずと滑って、体勢を崩した。

「って!・・・てっ、てえええええええ」



叫びながらテラが四段飛ばしで客席を駆け下りる。しかし間に合わなかった。テラの叫びもむなしく、真太郎は恐怖のあまり無言のまま、バナナの皮でも投げ捨てられたかのように、すべての関節がゆるゆるになったまま、みじめに奈落の底へ落ちていった。

奈落へ駆け込む一同。
よもや砂川の事故の二の舞か!

「大丈夫かあっ!」

テラがマットに乗り出して顔を覗き込むと、目も口も大きく開けたまま固まっている真太郎はピクリともしない。

「え、おい。ちょっと。大丈夫なのか」

ぐばはっ。
大きく息を吸った真太郎が、ようやく目をしばたかせた。

「名前言ってみろ、自分の名前」

「首は大丈夫か」

「後頭部見せてみろ」

「舌かんでねえか」

「どっかひねってねえか」

一斉に話しかけるメンバーたち。どうやら無事だったようだ。受け身もとれないようなひどい体勢で落ちたにも関わらず、なんともないなんて奇跡だ。驚きを隠せない一同。

小仏がその手を取って立ち上がらせようとして声をあげた。

「あんた、どしたよ。手折れてんじゃないか!」

支えようとして足を持ち上げて今度は、

「おい、こんなにももが上がっちやったよ。ももの関節どうにかなっちまってるよ」

しかし恐怖から解放された真太郎は、いかにものんびりと、

「ああ、大丈夫ですから。僕って生まれつき、関節とか身体が柔らかいんです」

そう言ってぴょこりと前屈をして見せた。身体が腰からペタリと二つ折りになった。

「そのせいか、小さいころからけっこうなところから落ちても怪我しないんです」

結局、真太郎は金曜日の稽古終了まで、二度とトップステージには昇れなかった。フライングなど、なおさらありえない。


あっという間に本番が明日に迫った。真太郎の初日となる土曜日の公演では、エクスレッドは、フライングもしなければ、高い所で戦う事もない。そう決まった。

「チビッ子たちに、危ないからボクたちのまねをしちゃだめだぞ、って言わなくて済むからいいな」

喫煙所でそんなことを言いながら、煙草をぷかーっと吐くイノさん。
イノさんお得意のそんな冗談にも、全く笑えないテラだった。