「お疲れさまでした」
「お先に失礼します」
「明日またよろしくお願いします」
いつものように、一日のステージ終わり。楽屋のいたるところで声が飛び交う。
行きかう人に挨拶をしながら、真太郎は四番楽屋のドアをノックした。
「お疲れさまでした」
「おう」
楽屋にはもうテラしか残っていなかった。
真太郎は考えていた言葉を口に出した。
「そういえば、イノさんが探していたみたいですけど」
「なんだ?」
真太郎はさあ、と首をかしげながら、
「喫煙所にいるんじゃないですか?」
おう、と言葉にならないような声を発して、タバコの箱をポケットに突っ込み、テラは出て行った。
ドアの閉まった音と同時に、真太郎はテラのバッグのチャックをあけた。
バッグの内側にあるサイドポケットに楽屋の合鍵が入っていたのを覚えていたのだ。
手を入れて探ってみる。
――ない。
念のため外づけのポケットも見てみたが、何も入っていない。
よく見れば、テラのバッグは相当くたびれている。
擦り傷が縦横に走り、持ち手のコーティングはめくれ、底のあたりは擦れに擦れて、いつ穴が開いてもおかしくないほどだ。
物持ちがいいのか、新しいものを買うのがもったいないのか、もの使いが荒いのか、ただ無頓着なのか。
小さく吐息をつく。
鍵をこっそり手に入れて、皆が帰ったあとで劇場に戻って、じっくりこの部屋を調べなおそうと思っていた当ては外れた。
いまだに信じられない。
テラが未緒に特別な感情を抱いているなんて。
とりあえず、テラが戻ってくる間に、ここを調べられるだけ調べようと思うが、もともと物が置かれていない化粧台に、なにがしかの手掛かりは見つかりそうもない。
もう一度バッグを調べようと伸ばした、手が止まる。
何か、引っかかる。
鏡越しに武尊の化粧台が視界に入る。
相変わらず雑然としている。
掃除をしてくれていた水戸がいないため、余計に散らかっている気がする。
テラの鏡に映った、武尊の鏡前。
何かがおかしい。
武尊の鏡前のくしゃくしゃにほうり捨てられた湿布。
外したサポーター。
――そうか。
ようやく、真太郎は気付いた。
テラの鏡前には、あるべきものがないのだ。
真太郎は自分の鏡前を思い浮かべる。
自分の鏡前にも、武尊の鏡前にも、あるべきものが、テラの鏡前にはないのだ。
テラの鏡前には、湿布、サポーター、アイシングの氷パックなど、身体をケアする用品が、いっさい置かれていないのだ。
武尊から借りているとか?
ありえない。
武尊がここに来る前に、以前テラの楽屋に入った時も、そのようなものは一切置かれていなかったことに思い当たる。
練習中、テラが辛そうに顔をゆがめているのは何度も見ている。
あれほどのアクションを毎日こなしていれば、むしろ満身創痍だとしてもおかしくない。
あるべきものは、いったいどこに。
思い当たる場所は、ただひとつ。

メインステージの袖に立った真太郎は、頭上を見上げた。
鉄の階段を、慎重に上っていく。
近頃は、キャットウォークを暗躍する怪人の話をするものはいない。
だからと言って、怪しむべき者が消えたわけではないだろう。
――自分の考えのとおりだったら・・・。
すでに磯貝は帰っているので、階上には誰もいないはずだ。
退館時間も近い。
残っている者はわずかだ。
残っている者も帰り支度をしているか、奈落で明日の準備をしているかで、キャットウォークに向かう真太郎に気を留める者はいない。
ステージの照明は落とされ、階段は黒い霧のような闇に包まれている。
暗いおかげで高さをあまり感じないが、冷たい手すりをつかむ手には余計に力が入る。
前に来た時よりも階段が伸びたのではないか・・・・。そんな気もしてくるのだ。
このまま暗がりをどこまでも昇りつづけるのではないかと思いはじめた頃、手すりはゆるくカーブして、階段の終わりを告げた。
以前よりは恐怖を感じないのは、眼下もキャットウォークの全貌も見えにくいからだろうか。
それとも、ステージをいく度も踏んだことで高所に慣れができたからだろうか。
目指すのは対角の位置にある、資材などが置かれたスペースだ。
だが、まだ残ってるスタッフもいるだろう。
余計な物音を立てて怪人騒ぎを復活させるつもりはないので、慎重に足を運ぶ。
積まれた段ボールが近づいてくる。
段ボールに囲われた内側に目が届く場所にたどり着いた真太郎は、暗がりに目を慣らすために一度目を閉じて数十カウント数を数えた。
それからゆっくりと目を開き、じっと目を凝らせた。
真太郎は静かに息を吸った。
想像していた通りのものが、そこには置かれていた。
折りたたみの簡易ベッド。
電動マッサージャーに電気針。
湿布にサポーター。
アイシング用の氷バックにアイスボックス。
目が慣れてくるにつれ、そこにあるのはかなり本格的なケア器具の数々であることが分かってくる。
キャットウォークの主、磯貝がこの場所を知らないわけはない。
むしろ磯貝がこの器具を駆使して、ハードの公演を終えてどうにかここに戻ってきたテラの手当てをしているのだろう。
磯貝の手当てで、テラがうめき声をあげる姿を想像する。
キャットウォークに徘徊する〝パルテノンの怪人〟の正体は、なんと、テラだったのだ。
楽屋にこんなものを並べて、始終ケアをしていたとしたら、上の者はテラに引退勧告することだろう。
水戸や、他のメンバーにはこんな自分を見られたくはなかったということなのか。
「つまらない意地だよ」
真太郎は小さく声に出してみた。しかし、今の真太郎は、その意地が理解できた。
そうまでして衰えを隠したかったのか。
だがその気持ちのいくばくかが、未緒へ向けられていたのかと思うと、真太郎の胸に、むせかえるような哀しみが沸き上がってきた。
ほこりのせいか、それともそんな思いからか、急に咳が出そうになって、真太郎は慌てて段ボールの棚に置かれたティッシュに手を伸ばした。
箱ごと手に取って二、三枚ひっぱりだしたティッシュで口を押え、咳をどうにか鎮めていると、なにげなく目をやったその棚の奥に目が釘付けになった。
真太郎は、それに手を伸ばして取り上げた。
それは、テラの鏡前に置かれていた、首のないレッドのソフトビニール人形だ。
むろん、ここはテラが使っている場所なのだから、大事なものを持ってきていたとしてもなんの不思議もないことだ。
怪人の正体と、レッド人形の行方。
図らずも、水戸の依頼の答えをどちらも見つけることができた。
元の場所に戻そうと、人形を斜めに傾けながら腰をかがめた真太郎は、その右足の裏に何か書かれているのに気づいた。
顔を近づけてみたが、暗すぎて判別できない。
あたりを見回し、スタンドが置かれていることに気づいた。
階下で音がしている。
まだ誰かいるのに明かりをつけるのはまずい。
人形を持って、階下の光が透ける床が金網状になった渡り廊下に移動する。
ゆっくりと腰を落とし、あおむけに横たわった。
下からの薄明りを背中にうけるような体勢を取ってから、人形を頭上に掲げて傾けた。
足の裏が階下の明かりでうっすらと判別できそうになって、真太郎は眉を寄せた。
マジックで書いたらしい文字はつたない筆致で、ぎりぎり判別できかどうかまで色褪せていた。
しばらく顔をしかめていた真太郎は、その文字の意味するところに思い至って、うああ! と声をあげた。
「誰かいますか?」
階下から声がした。
息をひそめた真太郎は、しばらく時間をおいてから静かに起きだした。
人形を元に戻し、階段を音を立てないように、ゆっくりと降りてゆく。
高さからくる恐怖は、今はみじんも感じなかった。