第四章 走れミオ! その愛を信じるなら

第48話 奈落

わるもn

前楽の二回目公演の後、武尊はすれ違いざま、未緒に紙片を渡した。

広げると走り書きで、こうあった。

〈ワザ教えたる 夜中の0時に楽屋口で。〉


その日の公演終了後、未緒はいつもどおりの顔をして、いつもどおりの時間に劇場を後にした。
事務所に立ち寄ったあと、一人で食事をして、買い物をした。

技を指導してくれるお礼を、と思い、少し迷ってマフラーを買うことにした。

思い切って真っ赤なマフラーを選んだ。

それでもまだまだ時間があったので、気になっていた映画をレイトショーで見て、やっと頃良いタイミングになったので深夜の地下鉄に乗って、遊園地のある駅に戻ってきた。

レンズで絞ったような月が浮かぶ空を、鈍色に突き上げるヒーローパルテノン。

背後の遊園地も常夜の明かりは灯っているものの、死んだように静まり返っている。

時計は零時をわずかに回っていた。

背後から肩をたたかれて振り向くと、すました顔で見下ろす武尊がポケットから出した鍵を、楽屋口ドアの鍵穴に差し込んだ。

「機材がそろってるから、稽古するにはここが一番」

「どうして鍵なんて持ってるんですか」

武尊は未緒の問いに口をゆがめるだけで答えようとしない。

楽屋へ続く長い廊下を曲がってようやく、オートロックの楽屋口ドアが閉まる音がした。

奈落の隅の暗がりでトレーニングウエアに着替えてステージに出ると、武尊はすでにジャージ姿で身体をしならせてストレッチをしている。

未緒も向かいに座って柔軟を始める。

「女優としてこれからやってくのにマスターしといてもいいのは、なんだ」

未緒が考えこんでいると武尊は、

「まずはきれいな蹴りなんかどうだ?」

未緒は顔を輝かせた。

「はい。お願いします」

「よっしゃ。じゃあ、最高の回し蹴り教えてやる。コツさえつかめりゃ、恥かしくない身のこなしができる」

未緒が勢いよく頭を下げる、それを合図にレッスンが始まった。

「つま先まで神経をいきわたらせろ」

武尊の指示通り、未緒は右足を高く上げてキープする。

「そのままだ。そのままで足先だけでまずはゆっくりとキック」

未緒が膝からつま先まで伸ばすと、

「形を覚えて、よしキープしろ」

武尊の手が、未緒のふくらはぎと、膝から太ももにかけて支える。未緒も身体を預けるようにして、体勢をキープする。

「身体で感覚を掴め」

小一時間で未緒は、片足をあげた状態のキック、そしてジャンプしての回し蹴りを披露できるようになっていた。

「誰の血を引いてるのか知らねえが、お前いいスジしてるな」

「ありがとうございました」

未緒は深々と頭を下げた。睡眠時間の代償に、得難い体技だ。

しかし武尊はこういった。

「なんだ。まだまだこれからだぞ」

「えっ、でも明日も早いし」

「次は〝おっこち〟だろうが」

武尊は白い歯を見せて、

「ちゃんとマスターすりゃあ、あそこからでも落っこちられるようになる」

そう言って頭上に顎をしゃくった。

「うそでしょ!」

そう言いながら、キャットウォークを見上げた未緒は、奇妙な、異様な感覚を覚えた。

――誰か、こっちを見下ろしている。

しかし、目を凝らしてみても、鉄骨の向こうの漆黒には何も見えない。

――気のせいだろうか。

「なんだ、どうした」

未緒は慌てて首を振る。

おっこちって私にはあまり役に立たないんじゃ、その言葉を飲み込んで、未緒は、よろしくお願いします、と頭を下げた。

第二次の個人教授がはじまった。

奈落に降り立った武尊は忌々しそうに、

「下っ端のころ、ここでセフティ修行をやらされた。とっととこの陰気でじめじめした穴から這い出たい、そう思ったもんだ。今だってすぐに出てきたいくらいだ」

だからか。

美緒は心の中でつぶやいた。

ほかの皆が奈落ベンチでたむろして食事をしたりコーヒーを飲んだり、馬鹿話をしていても、武尊はそこに加わってはいなかった。

二人は力を込めてハンドルを押して奈落の蓋を移動させ、奈落穴を開けた。

メインステージに上がった武尊は未緒の顔を覗き込むようにして、

「受け身は教わってるんだろ」

「はい」

「じゃあ、ここから背落ちしてみな」

未緒は、思わず、えっ、と大きな声を出した。

「ここからですか」

メインステージから奈落に敷かれたマットを見る。

マットまでの高さは、だいたい一メートルぐらいか。

いつもの公演では、アクションをこなすメンバーが七メートル頭上のトップステージから難なく飛び降りている。

そればかりか、ブルーに変身する仲間の麻田も、トップからのおっこちを毎公演こなしているのだ。

それよりもずっと低いメインステージから、ほんの一メートル背中から落ちるなどたやすいはずだが、実際にやるとなると、未緒はなかなか踏ん切りがつかない。

「やってみりゃあ大したことないってことがわかる。顎ひいて、両手を前に組んで、肩の力抜いて、ベッドにでも倒れ込むみたいな感じでやってみろ。あっと、舌は噛むなよ」

未緒は思い切ってその通りにやってみた。

すぐに背中がマットに着地する。

「な。大したことないだろ」

未緒がおずおずとうなずくと、

「じゃあ、俺がおっこちるから、見とけよ」

未緒をメインステージに取り残して、階段を上ってゆく武尊。

トップステージの高さまで登っても武尊はなおも階段を昇ってゆく。

「武尊さん、あの! どこまで」

いくんですか、の言葉を失い、武尊さん、とだけ呼びかけ続ける未緒の切迫してゆく呼び声にも、武尊はいっさい答えず昇っていく。

どうやら、このステージで人が昇っていける最も高い場所、キャットウォークまで昇っていったことが分かって、未緒は絶句した。

まさか。


思わず、美緒はつぶやいていた。

見上げるほどに、武尊がこれからやろうとしている行為が尋常でないことが実感できる。

ふと、さっきと同じような、〝視線〟をまた感じて、周囲を見回す。

おーい、と頭上の声に目を凝らすと、武尊はキャットウォークの柵から半身を乗り出して手を振っている。

「冗談ですよね!」

美緒のかすれる問いには答えず、よーく見とけ、の声と共に武尊の姿が見えなくなった。

未緒が何も言えないままでいると、はっ、と気合のような掛け声が聞こえて、武尊の一メートル八〇を超す身体が頭を下に落ちてきた。

未緒が目を見開くと、武尊の身体がジャックナイフのように一瞬のうちに丸まって反転し、背中を下にして見事にマットに沈んだ。

メインステージから目撃した命がけのアクションはあまりに衝撃的だった。

未緒はしばし瞬きを忘れてマットの上の武尊に、ただ目を落としていた。

武尊は、目を閉じたまま動かなかった。

「あの」

未緒は弾かれたように奈落へ駆け下りて、マットのそばまで走り寄った。

「武尊さんっ」

悲鳴に近い声で未緒がマットに上がると、武尊は急に起き上がってその手を掴んでひっぱった。

未緒をマットに転がすと、自分は起き上がってにやりと笑う。

「おどかさないでください」

「さすがにこの高さは効くな。さて、次はお前の番だ」

「嘘ですよね」

未緒が恐る恐る聞くと、武尊は何も言わずに未緒の手を引っ張った。

「ちょっと」

「冗談ですよね」

手を引かれるままの未緒は、戸惑いと不安の混ざった声で問いかけながら階段を昇っていく。