第四章 走れミオ! その愛を信じるなら

第49話 変身

わるもn

遊園地の名前を運転手に告げてからはずっと、テラは黙り込んでいた。

隣に座った真太郎は、テラの横顔を見ないまま、聞いた。

「あのレッドのソフトビニールの人形、未緒のものだったんですね」

「俺がシーマスターのシーレッドをやってたときに買ってやったもんだ」

「楽屋にあったレッドの人形を、キャットウォークに持っていったのは、未緒に気づかれたくなかったからですか?」

テラは酔いでも醒まそうというのか、窓を開けた。冷たい夜気が流れ込んでくる。

「先輩の楽屋に後輩が挨拶に行くのは慣例ですからね。挨拶に来た未緒の目に入らないところに持っていく必要があったんですね」

「美鶴がちいさいころ、あの人形をずっと肌身離さず持っていたんだ。あいつと郁子がいなくなった後の部屋に人形が残されてた。首がもがれてなくなってた。それでも俺にとっちゃあ、思い出なんだよ」

それが未緒が自分を憎んでいるに違いないという理由なのか。真太郎は問いかけた。

「テラさんさっき」

「なんだ」

「さっき、何か言いかけてやめましたよね。小仏さんの店で、正体を隠したままのほうが未緒に嫌われないで済むって言ったあと、何か言おうとしましたよね」

「覚えてない」

覚えてない、という顔ではなかった。

テラはまだ何か隠している。

運転手が大きなくしゃみをしたので、テラは後部座席の窓をしめた。



初めて上がったキャットウォークは暗く、全貌がつかみづらいこともあって、思った以上に広く感じる。

「さあ、やってみるか」

表情の読めない武尊の言葉に、未緒は確かめるように聞き直した。

「冗談なんですよね」

「そう思うか」

武尊の口調が真剣さを帯びていることに、未緒は言葉を返しあぐねた。

逡巡していると、不意に、

「ドキドキしてるんだろ」

武尊の手がのびて、胸に当てがわれた。

未緒はぎょっとしつつも過剰な反応はできず、やんわりと身体を引いた。

「高いところに上がれば、おのずと脈拍も上がる」

未緒が黙っていると、武尊は未緒をじっと見て、

「興奮してるだろ」

未緒が、え? と聞き返す前に突然腕を掴まれた。

引き寄せられるやいなや、その唇に武尊の唇がぶち当てられた。

歯と歯がぶつかって音をたてたんじゃないか。そう思った。

優しさのかけらもなかった。

未緒は痛みを感じながら、慌てて身をよじって後じさりしようとしたが、また腕が伸びて強引にひきもどされた。

腰に腕が回された、その激しさに未緒は、痛いと小さく叫び声をあげた。

それはいつもステージ上で自分を抱きよせる優しさとは全く「別もの」だった。

「だれ?」

思わず未緒は呟いた。

「あなたは、ちがう」

なおも未緒を抱き寄せようとする武尊を、未緒は渾身の力で引き離した。

ぴしん!

張り詰めた音はキャットウォークの闇に吸い込まれた。未緒が武尊の頬を張っていた。

ギラついていた目が、みるみる冷えていく。

死んだような目になった武尊が、ふわり、両手をあげた。

直後、未緒の両肩をどんと突いた。

柵を背に立っていた未緒は、凍り付いた表情のままバランスを崩した。手が足が、宙を泳いだ。

もんどりうったように柵の向こうに体軸は傾いて、未緒の身体は奈落へと落下していった。

柵の向こうで見下ろす武尊の氷の顔が遠ざかってゆく。

かろうじてマットには背中から落ちたものの、未緒は激しく身体を打ちつけられた。

息ができなくなって視界が黒くかき消され、未緒は意識を失った。

武尊はマットのド真ん中に沈んだ未緒を、目を細めて見下ろした。

脇のスペースに安全に〈おっこち〉するのは難しそうだ。

ゆっくりいくか。

武尊はそう言いながら笑みを浮かべ、鉄の階段を降りてゆく。




「どんな顔をしたらいい」

流れる車窓にテラがぽつりとつぶやく。

「どうも俺は、美鶴の顔をまともに見られる自信がない」

真太郎はつとめて明るく、励ますような口調で、

「大丈夫ですよ。テラさんの正体、未緒は知らないんですから」

真太郎の言葉にもテラの表情は和らぐことはなく、

「こういう時、本当に変身ができたらいいのにって思うよ」

テラの言葉には切実さがこもっていた。そしてぽつりと、

「ヒーローっていいな」

「なに言ってるんですか。テラさんは〝わるもん〟ひと筋じゃないですか」

真太郎の叱咤するような響きに、テラが申し訳なさそうにまじめな顔で、

「そうだった」

「浮気しないでくださいよ」

フロントガラスに目を移すと、小さく見えていた明かりの落ちた遊園地が、大きくなるにつれ、悪の要塞のように見えてくる。



闇にまとわりつかれたまま、未緒は動けない。

かろうじて、硬い音が耳に飛び込んでくるのは確認できた。

鉄の階段を降りる硬い靴音が、次第にはっきりと聞こえてくる。鉄を踏む音は、やがてコンクリートを踏む絞るような音に変わって、確かなものになってくる。

自分が横たわっているマットの足元あたりが沈み込むのを感じる。

上体を支える部分に体重がかかった直後、首まであげていた濃紺のウエアのファスナー金具がくい、とつままれ、一気に引き下げられた。

ウエアがはだけられると、すかさず下に着ていたキャラクターもののTシャツが乱暴にたくし上げられた。

青白く露わになったなめらかな腰に、ひたり、と節だった手が当てられた。

その刃物のような冷たい感触に、未緒の目は見開かれた。

はじかれたように飛びのく。

体勢を整えようと斜めに起き上がった武尊に、一瞬背中を見せたと思うと、ももをひきつけ、下半身をふりぬいて、足先に力を込めてフルスイングした。スニーカーに守られた未緒の足の甲が、立ち上がりざまの武尊の側頭部にヒットした。

武尊は奈落の壁に作りつけられたスチールの機材棚に身体を叩きつけられ、床に倒れこんだ。

未緒は息を整える間も惜しいとばかりにマットに飛びのると同時に転がり、反対側に置いてあった私物のバッグに手を伸ばした。

瞬間、またも〝視線〟を感じたが、ひるむことなくバックを掴んで、携帯電話を探す。

ない! 

バッグの奥底まで手を突っ込んだその時、ぞわりとする感覚を覚えて振り返ると、起き上がった武尊がこっちを見下ろしながらにやりと笑った。

口の中が切れているのか、さっきまで白かった歯はぬらりと赤く染まっている。

そうして手の中の、見覚えのある携帯電話を見せた。

未緒が小さく息を漏らすと、それを地面に落として思い切り踏みつけた。

悲しい音がして、武尊の靴の下で、砕け散ったディスプレイが無残な姿をさらしていた。

武尊は言葉にならない唸り声をあげた。

未緒のウエアの首根っこを掴んで引きずろうとするが、未緒はウエアの両腕を抜いてすり抜ける。冷え切った空気の中で、Tシャツ一枚の姿になった未緒の右足首を掴んで、なおも引きずっていこうとする。

未緒は口の開いたバッグを掴んだまま引きずられた。

私物が散乱してゆく。

その手に紙包みが触れた。

武尊にプレゼントするつもりだったマフラーの包みだ。

とっさに包みを引き裂いてマフラーをつかみ出すと、腹筋をぎゅうと収縮させ武尊の上半身にしがみついた。

真っ赤なマフラーを武尊の太い首に巻きつける。

自由な左足を武尊の鎖骨の下にぐいと押しあてて全身の力を込める。

のけぞるほどの体勢でマフラーの両端を引っ張って首を締め上げた。

ギリギリ!自分の歯ぎしりの音が脳に響く。

喉からふいごのような音が漏れても、その手を力を緩めなかった。

やがてそのひゅうひゅうという音も聞こえなくなり、武尊の全身から力が抜けていったのを未緒は確認し、ようやくその腕ををゆるめた。

――逃げなくては。

武尊の痙攣する足を見下ろしながらそう思ったが、どうしてか未緒は、奈落から廊下にかけて散乱したバッグの中身を拾いはじめた。

逃げなきゃ。

頭の中でそう思いながらも、未緒はひとつひとつ、散らばった私物を拾ってゆく。

ポーチを手に取ろうと腰をかがめた未緒は動きをとめた。

ファスナーの金具につけていたストラップの、お守りの赤い球が見当たらなかった。

あたりを見回しても、マットの下の陰になっているところに目を凝らしても、見当たらない。

武尊が倒れている廊下にもう一度出て、未緒の呼吸が止まった。

武尊の居た場所には、マフラーだけが、血まみれの蛇の抜け殻のようにぐにゃりとうねっているだけだった。

背中に吹きかかる風、それが息だと気づいた。

美緒は振り返った。